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ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリ...

  ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 01:22:57 
  テンペスト様 いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 01:52:47  (修正1回)
  │└いちおうサターン版2からのユーザさんあり... テンペスト 2004/10/21 20:31:23 
  │ └シンデラーが生きのびていてコーチ・監督に... いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/22 05:29:08 
  │  └またまたどうもです。 テンペスト 2004/10/22 19:53:26  (修正1回)
  なお、シンデラーの栄光と挫折、ならびにそ... いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 03:44:47  (修正4回)
  │├お疲れ様です。 NAOKIN 2004/10/21 07:52:01  (修正1回)
  ││└NAOKINさんありがとうございます。 テンペスト 2004/10/21 22:34:59 
  │└最後にちょっとだけサカつく関連の話を。 いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/22 08:52:51  (修正2回)
  いちおうサターン版2からのユーザさんテン... HAL 2004/10/21 21:04:27 

  ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 01:22:57  [ツリーへ]

ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について
いちおうサターン版2からのユーザ <zetsxyjnsj> 2004/10/21 01:22:57
http://www.sakatsuku.com/bbs4/bbs/s/sakafour/13/davkkc/ywgzyx.html#ywgzyx
このツリーがいっぱいになったようなので、恐縮ですがノートを立てさせていただきます。
サカつくと直接関係ない話ですいません。雑談ノートにレスしようかとも思ったのですが、またいっぱいになったら移動するとかだとかえってウザいかと思いまして・・・。もし不快に思われる方がいらっしゃれば削除させていただきます。

  テンペスト様 いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 01:52:47  (修正1回) [ツリーへ]

Re: ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について
いちおうサターン版2からのユーザ <zetsxyjnsj> 2004/10/21 01:52:47 ** この記事は1回修正されてます
テンペスト様
詳細なレスありがとうございます。
まず、シンデラーの代表での得点数ですが、27というのは当方が提示した1931〜33年の得点数ではなく、生涯の代表での得点数のようですね。すいません。

それと、オーストリア代表の現在までの戦績全部が載っているサイトを見つけました。
 http://www.rsssf.com/tableso/oost-intres.html
これを見ると、
・1931〜34年はじめ(ワールドカップ前)までがブンダーチームの全盛期だったこと
・34年イタリアワールドカップの準決勝でイタリアに負けてからは、以前のようなバカ勝ちがなくなり、なおかつ引き分けや負けも多くなっており、相当衰えが来ていること
・37年5月にワールドカップ予選(対ラトビア)で勝って38年フランスワールドカップへの出場権を得ていたこと(38年3月のナチスドイツによるオーストリア併合で辞退)
などが読み取れます。

それから、30年代中盤のシンデラー(サカつく的にはシンドラー)の活躍についてですが、やっぱり資料が少なくてよくわかりません。ただ、33年・36年のFK AustriaのMitropa Cup優勝には相当の貢献をしているようです。33年にはMitropa Cup得点王を取っています。36年にはINTERのGiuseppe Meazza(ミラノのスタジアムの人ですね)に得点王はさらわれたものの、そのINTERとのホーム&アウェイの2試合で3得点を決めていて、得点力が衰えていないことを感じさせます。
ちなみに、Mitropa Cupは、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキア、イタリアの4カ国のクラブチーム(33年の場合。36年はここにスイスが入って5カ国)によって争われたカップ戦で、「CLの前身」と紹介されることもあるようですが、規模の点では小さい大会だったようです。

まあしかし、1934年の時点でシンデラーは31歳で、その後亡くなるまでの数年は、やはり「成長力は落ちたが経験でカバー」あるいは「これ以上の成長に期待するのは酷」といった状況だったのではないかなあ、と思います。

  │└いちおうサターン版2からのユーザさんあり... テンペスト 2004/10/21 20:31:23  [ツリーへ]

Re: テンペスト様
テンペスト <dctlebzpmz> 2004/10/21 20:31:23
いちおうサターン版2からのユーザさんありがとうございました。

なんだかマニアックに盛り上がり、スレまで立てていただきまして恐縮です。しかし知らない方達にもブンダーチームと悲劇のシンデラーの軌跡に興味を持って頂けたら幸いですよね。

それにしても、オーストリアがハンガリーを支配し、今度はオーストリアがナチスに支配され今度はソ連が迫る。その過程で同じような悲劇が繰り返される。当事者からすると笑い事ではないのでしょうが、そう言うドラマチックな歴史は感慨深いものがあります。
ブンダー以前はオーストリアはハンガリーに全く勝てなかったそうですが、これはオーストリアが弱かったと言うよりハンガリーが過去の経緯もあってより闘志を燃やしていたのかも。聞く人によっては不謹慎と取られるかも知れませんが、過去の経緯をふまえた日韓の関係と似ている気が私はします。

しかしかつて二重帝国であったオーストリア、ハンガリー両国が今や欧州サッカーにおいて後れを取っているのは皮肉なものです。
 ハンガリーはプスカシュが亡命して存命ということと、後年フローリアン・アルベルトの活躍もあってか古豪と称されることもありますが、オーストリアは未だ忘れ去られた感があります。
 ちなみに私の手持ちの資料はシンデラーはユダヤ人であり亡命手段に行き詰まって自ら命を絶った説を採っています。もしその後もシンデラーは生き抜いて、戦後を迎えたら、ひょっとすると現在のサッカー勢力地図を塗り替えることとなったかも知れない。そう思うと残念で仕方ありません。
シンデラーなら恩師ヒューゴ・マイスル(と言ってもマイスルはブンダー成立前の敗戦の責任をシンデラーと盟友グシュバイドルに取らせて「2度と二人を起用することは無い」と言っていた時期があるらしいので当人同士の関係は疑問ですが)の後を継いでブンダーの精神と戦術を後輩に伝授できたかもれません。
しね。
 
またさかつく意外の話題で長くなりましたね。しかし、次回作では是非ブンダーチームを反映して欲しいものです。それでは失礼。

  │ └シンデラーが生きのびていてコーチ・監督に... いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/22 05:29:08  [ツリーへ]

Re: いちおうサターン版2からのユーザさんあり...
いちおうサターン版2からのユーザ <zetsxyjnsj> 2004/10/22 05:29:08
シンデラーが生きのびていてコーチ・監督になっていたらという想像はいいですね。
シンデラーと対戦したことのある元選手(もう85歳だそうです)の話によると「彼(シンデラー)はチェスの名人のように試合を読むことができた。彼が作り上げたゲーム戦術は、『ウイーンフットボールスクール』と呼ばれていた」とのことで、非常に戦術眼も高かったようです。

死因と人種問題についてですが、自分としてはやはりシンデラー自身はユダヤ人ではなかったという説を採りたいと思っています。前に書いたことと重複しますが、
・ゼルベルガー(違)自身が招集を掛けた思い出を述懐しているが、シンデラーがユダヤ人であればいくらゼップ・ヘルベルガーといえども招集をかけることはできなかったと思われる
・クラブのユダヤ人が追放された後も死の直前(1938年12月)までプレーを続けている
・シンデラーの葬儀は公式に行われ、15,000人もの人が参加した
所属クラブの関係もありユダヤ人の友人・知人は多かったようで、その点が政治的信念に影響していたことは確かなようです。

マイスルのエピソードは初めて知りました。ありがとうございます。

>次回作では是非ブンダーチームを反映して欲しいものです。
ですね。

  │  └またまたどうもです。 テンペスト 2004/10/22 19:53:26  (修正1回) [ツリーへ]

Re: シンデラーが生きのびていてコーチ・監督に...
テンペスト <dctlebzpmz> 2004/10/22 19:53:26 ** この記事は1回修正されてます
またまたどうもです。

マイスルが二人を代表から外したのは、29年にニュルンベルグで行われ、0−5で破れた南ドイツ選抜戦でウィーン選抜の既にチームリーダーとしてプレイした二人に敗戦の責任を負わせたからだそうです。この時既に二人は所属クラブでは誰もが驚くようなプレイができなくなっていた(ということはそれ以前はもっと凄かったのか?)とも書いてあるので。マスメディアやサポーターなどの外圧に負けたのかも知れません。
それにしてもシンデラーはもっとも脂がのりきった27歳からの2年間も代表に呼ばれなかったわけですからなんとももったいない限りです。
とはいえこの当時の二人のポジションを代表復帰の時に入れ替えたことでブンダーは完成したわけですから2年の雌伏は結局無駄では無かったのかも知れませんが。
しかし没年を考えるともっといっぱいサッカーたのしんでほしかったですね。
しかしそのギリギリまで現役でプレイしていたわけですからひょっとしたら超持続型(あるいは2段階成長)の選手だったかも知れませんというか、さかつくでそういうにして欲しいです。

ところで当時ぴっちり真ん中分けの人が多かったようですが(ジュゼッペ・メアッツアとか)あれはヘディングに支障がなかったんですかねぇ。(笑)

  なお、シンデラーの栄光と挫折、ならびにそ... いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/21 03:44:47  (修正4回) [ツリーへ]

Re: ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について
いちおうサターン版2からのユーザ <zetsxyjnsj> 2004/10/21 03:44:47 ** この記事は4回修正されてます
なお、シンデラーの栄光と挫折、ならびにその死については、
 ・http://syuu.cside8.com/meiden/mei_16.htm(言わずと知れた円盤人さんの「名選手伝説」
 ・http://members.kabsi.at/pescara/news/4-4-2/4-4-2.html(英文ですが)
あたりに詳しく載っています。

円盤人さんが(おそらくスペースの都合等で)あまり採り上げていないシンデラーとオーストリア代表のエピソードを、上記のうち後者の記事を中心にしてテキトーですがまとめてみます。以下サカつくに関係ない長文ですいません。

【1934年イタリアワールドカップ】
 1934年にはオーストリアはイタリアワールドカップの優勝候補に挙げられていたし、シンデラーもそこでスターになるはずだった。しかし、オーストリアは当時世界恐慌のあおりを受けて失業率38.5%とも言われる大不況のまっただ中にあったため、代表チームもトレーナーやマッサージ師、コーチングスタッフを帯同できなかった。また、オーストリアの国内リーグは他の国よりも遅くに終わったため、選手たちは疲労がたまっている状況だった。
 これらの困難にも負けず、オーストリアチームは準決勝まで勝ち進み、ムッソリーニのイタリアと対戦することになった。当日はひどい雨でグラウンドコンディションが悪化しており、オーストリアチームの特色であるパス攻撃には大きな障害となっていた。また、シンデラーは、イタリアチームがワールドカップに勝つためにアルゼンチンから帰化させた選手の一人であるルイス・モンティに個人的に狙われていた。モンティは、2年前のオーストリア−イタリア戦でシンデラーにヘディングでボールをお手玉するような形で抜かれてゴールされていて、それを屈辱に感じていたのである。
 試合開始早々にモンティにひどいケリを入れられ、シンデラーは残りのゲーム中ほとんど何もできなかった。モンティはさらに、ケガをしてグラウンドに倒れているシンデラーに追加のケリを入れた。にも関わらず、審判は何事もなかったのように試合を続行した。試合は、イタリアの明らかにオフサイドと思われたゴールが有効とされ、オーストリアは0-1で敗北した。3位決定戦にもシンデラーはケガのため出場できずドイツに2-3で負け、結局4位に終わった。

【対ナチス】
 オーストリア代表は1938年フランスワールドカップの予選を通過していたが、1938年3月にナチスドイツにオーストラリアが併合されて国家そのものがなくなったために辞退せざるを得なくなった。併合後、旧オーストリア代表選手で有力な選手は次々とドイツ代表に参加していったが、シンデラーは彼自身の政治的信条によりドイツ代表に参加しなかった。(シンデラー自身がユダヤ人だったからという説もありますが、後述のゼルベルガーもといゼップ・ヘルベルガーの述懐にもあるように、政治的信条が原因というのが正しいのではないかと思います。ユダヤ人だったらそもそも代表への招集がかかるはずがないと思うので)。所属クラブであるFKオーストリアはユダヤ系の選手・役員が多かったためにナチスから目の敵にされ、クラブ代表も含めて多くの関係者が追放され、一時チーム名まで変えさせられた(その後、あまりにも反対の声が大きくなったために1年足らずで元に戻された)。
 そんな中、1938年4月にウイーンで「旧オーストリア」対「大ドイツ(ドイツ・オーストリア連合軍)」チームの一戦が、「(再)統一」という名目で行われることになった。シンデラーは「旧オーストリア」チームのキャプテンとしての出場を依頼されたが、その時にどうしても譲れない条件として、チームのユニフォームをオーストリア国旗と同じ赤と白のデザインとするよう働きかけている(ちなみに、それ以前のオーストリア代表のユニフォームは紫色)。
 シンデラーと「旧オーストリア」チームは、事前にナチス当局からゴールしないようにという警告を受けていた。にもかかわらず、35歳になっていたシンデラーは、両チームを通じて一番のプレーヤーであることを証明するようなプレイを続けた。ドイツディフェンス陣をあざ笑うかのようにすり抜け、何度もチャンスを作ってはわざとらしくゴールを外し続ける。6万人の観衆も、さすがにその意味を理解できるような方法で。
 しかし、後半になって、シンデラーはもう芝居は終わりだとばかりに得点を入れてしまう。そして、僚友のゼスタが2点目を入れた時に、シンデラーは貴賓席の前まで行って、居並ぶナチス高官の前で歓喜のダンスを踊った。
 その後も、ドイツ協会はシンデラーに代表キャンプへの招待状を送り続けたが、シンデラーは無視するか、年齢やケガを理由に断り続けた。当時ドイツ代表コーチで、戦後は西ドイツ代表監督となったゼルベルガー(じゃなくて(ry)は、「シンデラーの代表拒否の理由は当時の政治的状況に対する拒否であったと思う。何度も彼を招集しては断られることを続けたあと、最期に『もう(招集を)あきらめた』と告げたとき、彼は肩の荷をおろしたような表情になった」と戦後になって述懐している。

【シンデラーの最期】
 シンデラーの最後の試合は1938年12月、FKオーストリアvsヘルタ・ベルリンだった。その試合でも彼は1ゴールを挙げている。翌1939年1月、36歳の誕生日の数日前にシンデラーの死亡が報じられた。公式には一酸化炭素中毒による事故死とされたが、彼の愛した国やチームが蹂躙されたことによって鬱状態になったために自殺したという説もある。さらに、死亡した時に一緒にいた女性(半分ユダヤ人の血が入っているイタリア人、彼女も数日間昏睡した後死亡。ちなみに、シンデラーは死ぬまで独身で、洗濯屋を営む母親と一緒にアパートに住んでいた)とは数日前に出会ったばかりであったこと、警察による捜査にナチスによる妨害が加わったという噂、さらには捜査結果が紛失している(公式には第二次世界大戦のため焼失)こともあり、謀殺説もささやかれている。

  │├お疲れ様です。 NAOKIN 2004/10/21 07:52:01  (修正1回) [ツリーへ]

Re: なお、シンデラーの栄光と挫折、ならびにそ...
NAOKIN <dsejyxwctk> 2004/10/21 07:52:01 ** この記事は1回修正されてます
お疲れ様です。
「紙の男」マティアス・シンデラーに関心があったので興味深く読ませていただきました。

>わざとらしくゴールを外し続ける
ソビエト政権下で権力者の意向を無視して自由に振舞い続けた「ロシアのペレ」ストレルツォフや、ルーマニアでチャウシェスクの息子に尻を向けてからかったヨアン・アンドネの気骨に通じるものがありますね。

こういうものもヒットしました。
http://www.geocities.jp/fb_museum/GreatPlayer/Austria/sindeler.html

  ││└NAOKINさんありがとうございます。 テンペスト 2004/10/21 22:34:59  [ツリーへ]

Re: お疲れ様です。
テンペスト <dctlebzpmz> 2004/10/21 22:34:59
NAOKINさんありがとうございます。

提供して頂いた資料は私にとっても参考になりました。
特にシンデラーのクラブ在籍歴は私がもっとも知りたいことでしたのでありがたい限りです。

戦火に燃え尽きた「紙の男」という表現は韻を踏んでいて感銘を受けますね。

  │└最後にちょっとだけサカつく関連の話を。 いちおうサターン版2からのユーザ 2004/10/22 08:52:51  (修正2回) [ツリーへ]

Re: なお、シンデラーの栄光と挫折、ならびにそ...
いちおうサターン版2からのユーザ <zetsxyjnsj> 2004/10/22 08:52:51 ** この記事は2回修正されてます
最後にちょっとだけサカつく関連の話を。

シンデラーといえば身長(179cm)の割にヘディングがヘタだったということになっていて、サカつく内でもシンドラーはヘディングCの評価になっています。
これは、ぴっちりと横分けした髪(http://www.unet.univie.ac.at/~a8752025/sindi3.jpg)を崩したくないという理由でヘディングを嫌っていたためで、「オーストリアの本田衛」という異名もとっています(ウソです。(いないと思うけど)信じないでください^^;)。

しかし、ルイス・モンティとの個人的遺恨の原因となった対イタリア戦でのゴールはヘディングで決めています。左ウイングのフォーグルがコーナーキックを蹴り、グシュバイドルがヘッドでイタリアのDF越しに流したボールを、シンデラーがそのままヘッドでふわりとイタリアDFルイス・モンティの頭上を通した上で、自らダッシュして落下点に入り、再びヘッドでキーパーの頭上を越えてイタリアゴールの隅に決める、という芸術的なゴールだったそうです。
こういう話を読んでいると、もうちょっとヘディングの評価が高くてもよいのではないかなあ、という気もします。

  いちおうサターン版2からのユーザさんテン... HAL 2004/10/21 21:04:27  [ツリーへ]

Re: ブンダーチーム(1930年代前半のオーストリア代表)について
HAL <zvxsvozcev> 2004/10/21 21:04:27
いちおうサターン版2からのユーザさん テンペストさんお疲れ様でした。

不快?とんでもないです。
マニアック?とんでもないです。

大変興味深く読ませてもらいました。
今後もこんな話がありましたら(こんな話でなくてもいいですが)
よろしくお願い致します。

追記 自分の方がおバカでマニアック(エアーウルフとか)な話してたので反省してます。


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